去る7月24日(土)、長崎の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館と秋田市とを結んで、「ナガサキ・土崎被爆証言講話会」(主催:秋田市)がオンラインで開催・配信されました。
長崎在住の山田一美さんは、当時国民学校6年生で爆心地より3.2kmの地点で原爆を被爆しました。強烈な閃光に包まれ、直後に襲った猛烈な熱さに「もうこらえられない」と思ったそうです。たまたま岩陰にいたために直接熱線を浴びずにすみ、けがを負わずにすんだ山田さんですが、その後に目にした光景はまさに地獄のような光景でした。全身にやけどを負い、皮膚は体のあちこちから垂れ下がり、ただ助けを求めて歩く人々、水を求めて川辺までたどり着き、そのまま倒れ込み亡くなる人々、川の手前で力尽きる人々、亡くなった赤ちゃんを知ってか知らずかおぶったまま歩く母、体が燃え狂ったように走り回る馬、、、。戦後残された貴重な絵図を示しながら、原爆被害のむごさを伝えてくれました。「終戦翌月の9月に初めて爆心地を訪れると、家は一軒も残っていなかった。『一発の原爆で町が消えた。そんな爆弾が使われるような戦争はもう起こらないようにしてもらいたい』」(秋田魁新報より)と締めくくりました。
4歳で土崎空襲を体験した伊藤津紀子さんは、太平洋戦争の終戦前夜、8月14日夜に日本石油秋田製油所を攻撃の中心目標とした爆撃の体験を語りました。爆撃開始後、いったんは防空壕に避難するも「ここでは危ない」との家族の判断で、爆撃による真っ赤な光に脅かされながら、海とは反対側にある高清水の方へ家族で逃げたこと、家族は無事だったが家に戻ってみたら、そこには大きな穴が2つあるだけで家屋は跡形もなかったこと、などの記憶を語りました。また、被爆市民会議が収集した体験証言から空襲当時のたくさんのエピソードを紹介しました。戦争は二度と繰り返していけない。そのために、今後も自分の体験を一人でも多くの若い世代に向けて語り、伝えることでその力になっていきたい、と決意を語りました。
秋田市によるとこの講話会の聴講者は42人とのことでした。市民会議にとっても大変貴重な経験となりました。今回のようなオンライン形式も含め、多様な形で講話会を展開していきたいと考えます。
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