去る8月14日(土)、新型コロナウィルスの感染予防対策を十分にとったうえで、秋田市長と秋田市議会議長、及びご遺族をはじめとしたご来賓を含め、約100名の方々のご参列のもと、「2021年土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」を行いました。
式典では、最初に、旭悠斗さんが撞く「平和の鐘」の静かな音色とともに、土崎空襲で命を落とされた250名以上の方々の無念と、残された人々の困苦とその克服を思いを馳せながら黙祷しました。なお、この鐘は、戦地から持ち帰られた武器や薬莢などを原料として作られたもので、悠斗さんは、製作者の故・熊谷恭孝さんのお孫さんです。
次に、土崎港被爆市民会議会長の伊藤紀久夫があいさつしました。戦後76年が経過し、空襲及び戦争体験者が年々減少している中、現存する戦争遺品、実物資料、証言集、また証言を記録した映像などを有効に用いながら、多くの人々、とりわけ未来を担う若い世代への働きかけを強めていきたい。事実を伝える中で、子どもたちは空襲や戦争のことを自分の問題として受け止め、なぜ戦争は起きたのだろうか、二度と繰り返さないために何をすべきなのかという問いに向き合っていくことができる。そこに確信をもちながら、昨年10月に逝去された前会長 高橋茂氏の遺志も受け継いで体験継承等の活動を進めていきたい。このような思いを述べました。
秋田市長 穂積志様、及び秋田市議会議長 岩谷政良 様からご挨拶をいただきました。また、秋田県知事及び秋田県議会議長からのメッセージが代読で紹介されました。,
最後に、参列者全員が献花を行い、犠牲者の霊を慰めるとともに、平和への願い・誓いを新たにしました。
引き続き、「21世紀 子どもたちから平和のメッセージ発表会」を行いました。市内の小・中学生から寄せられた作文の中から、審査の結果12点が入選しました。今回は、最優秀賞を収めた秋田市立土崎小学校6年生 三浦万葉(かずは)さんを始め、11人の小中学生がメッセージを発表しました。どの作品も土崎空襲や戦争、そして平和について講話会や自主的な学習、家族との語らいなどを通して学び考えたことを、自分の言葉でメッセージとしてまとめ上げていました。未来を担う世代の一人として力強い発信となりました。
発表の後、審査を行ったメッセージを贈る会代表の佐々木久春氏による表彰と講評、続いて詩人いとうのぼる氏による詩2編の朗読があり、今年の発表会を閉じました。
以下に、三浦さん、及び優秀賞の秋田市立城南中学校の渡辺彪さんの作文を掲載します。ぜひご一読ください。
最優秀賞 「本当の平和を求め、生きる人へ」
秋田市立土崎小学校6年 三浦 万葉(かずは)さん
これは、戦争で亡くなった方々へのメッセージです。これは、未来を生きる私達へのメッセージです。
1945年、8月14日、夜。言葉などでは表現できない、ものすごい音を立ててそれは、始まりました。土崎が、どこか遠くへ奪われて行きます。1200度でやっと溶けるか、溶けないか、という物が形なく溶けます。人々は水を求め、さまよい、多くの人が光沼に飛び込みます。
8月15日。油の焼けた臭いがします。その臭いが、前日の何もかもを物語っていました。もう一日、いや、もう半日、終戦が早ければ、土崎は何も起こらず本当の平和、幸せというものをすぐに手に入れられたでしょう。
7月2日。私達は伝承館へ行き、平和について学びました。そこで、爆弾の破片に触れさせてもらいました。破片一つ触れただけで分かりました。空襲という、むなしくも苦しい目に合った人々の命の重さを。
土崎の人々は、何のためにその、限りある人生を失ったのでしょう。どういう意味があるのでしょう。本当の平和、本当のしあわせとはどのようなものなのでしょう。
みんなでこの静かな青空を見上げていられるのが「本当の平和」かも知れません。みんなでこうやって、泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑い合うことが「本当の幸せ」かも知れません。本当の平和、幸せは、一つではなく、一人一人の平和は違い、それぞれの幸せに向かって生きています。また、それらの真相は誰一人として分かりません。いくつあるかは数えきれません。
それでも私は、空襲により亡くなった方々へ伝えたい言葉があります。多分、その方々もこの言葉を望んでいると思います。
「今、幸せです」。
優秀賞 「一人の人間として出来ること」
秋田市立城南中学校1年 渡部 彪(ひょう)さん
1945年8月15日、昭和天皇による玉音放送で終戦を知った僕の曽祖母は、19歳だった。周りの誰もが涙を流して戦争に負けたことを悲しむ中、曽祖母は、「嬉しい」と感じたそうだ。空襲に怯え、暗い防空壕で、わずかな食料を握りしめて過ごすことが多かったという。だから、終戦は曽祖母にとっては、嬉しかったのかもしれない。その曽祖母も去年の夏に亡くなった。93歳だった。
さて、曽祖母が喜びを感じていた76年前、ここ土崎で、人々は何を感じ、何を思ったのだろうか。
当時、土崎には、日本最大の産油量をあげていた日本石油秋田製油所があった。そこを攻撃目標とされ、8月14日、午後10時半頃から激しい空襲を受けた。アメリカ軍の爆撃機は、132機にも及んだ。投下された12,047発もの爆弾によって、わずか数時間ほどで辺りは地獄と化したという。お盆を迎え、ひとときの団らんを過ごしたであろう土崎の人々。250名以上が亡くなり、負傷者も200名を超えた。焼け野原の地獄と化した土崎で迎えた「終戦」は、空襲からわずか10時間足らず後のことであった。玉音放送を聞いた人々の心中は、計り知れない。怒り、悲しみ、絶望・・・。平和な時代に産まれた僕たちにとって、味わったこともない感情が、被爆した人々の心に渦巻いていたことだろう。
76年を経て、僕の曽祖母のように戦争を経験した人々は少なくなっていく。「戦争」というものを、仮想世界の中だけの出来事のように簡単に捉えている人々が多くなっていくのかもしれない。
今年の2月、6年の総合学習で、僕が通う牛島小学校に、土崎港被爆市民会議の伊藤津紀子さんが、ご自身が4歳で体験した土崎空襲について講話をしに来てくださった。僕は小学4年生の時に伊藤さんご夫妻と知り合えたおかげで、たくさんのお話を聞かせて頂いていた。また、自由研究等で調べたことにより、土崎空襲についての知識を多少なりとももっていたが、伊藤さんの講話を聞き、秋田市でもこれほど悲惨な空襲があったことを初めて知る級友が多く、驚いた様子だった。伊藤さんが触らせてくださった爆弾の破片は、鋭い刃物のような縁があり、ひんやりと冷たく、ずっしりと重い金属だった。それが、人々の体を、家を、土崎の町の何もかもを切り裂いたのだった。爆弾の破片の重みは、戦争の現実を僕たちの胸に残した。
昨今、世界中が新型コロナウィルスの混乱の真っ只中にあっても、今なお戦争の続く地域がある。戦争は何も生まない。僕たち人間は、話し合うことによって互いに理解し合う力をもって生まれた動物だ。たとえ 肌の色が違い、住む場所や話す言語が違っても、人間だけに許された力を駆使することで、必ず理解し合えるはずなのだ。戦争など決してすることのない未来をつくるのは、僕たち若い世界だ。僕たちには、悲惨な戦争の事実を語り継ぎ、武力でなく言語で解決することの大切さを訴え、平和を守っていく義務がある。
今年も8月14日がやって来る。76年前のあの日の空と、僕たちが見上げるこの空は、何一つ変わるところのない同じ青空のはずだ。悲劇を繰り返さぬよう、この美しい青空を未来の時代へ受け渡すことが出来るよう、「土崎空襲」を語り継ぐ一人に、僕はなりたいと思う。
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