12月11日(日)、土崎みなと歴史伝承館で開催した戦争と土崎空襲展特別企画「米軍新資料『秋田市空襲計画』と戦争体験を聞く会」に市民約30名が参加し、戦争について共に学び、考えました。 ① 秋田魁新報等の報道により紹介されていますが、戦争最末期に立案された米軍による「秋田・土崎中心市街地空襲計画」について小野がプレゼンを行いました。終戦が後少し遅れていれば、秋田と土崎の中心地に対する焼夷弾攻撃が行われ、8月14日の土崎空襲をはるかに上回る甚大な被害を受けていたかもしれない。身の毛もよだつような計画を米軍はリトモザイク(航空写真)を含め周到に準備していた。戦争の恐ろしさを改めて共有しました。 ② 「証言・土崎空襲」などを基に佐々木久春氏が編んだ「叙事詩 秋田土崎 日本最後の空襲」に収められている証言の中から、数編を3人のボランティアの皆さんが朗読しました。その内、1名は今回初めて市民会議の活動に進んで加わった高校1年生の北條遥菜さんです。つらく悲しいエピソードばかりの朗読ですが、動画「語り継ぐ土崎空襲」をくり返し視聴し、リハーサルでは自分の声を録音し家で振り返るなど熱心に取り組んでくれました。本番では、情景や心情をとらえた説得力のある朗読を行ってくれました。今後も協力を約束してくれ、大変心強い仲間が一人増えました。 ③ 保坂ミヤさんは、空襲当時、日本石油の社宅に住んでいました。今は語る人の少なくなった日石社宅とその周辺の様子、激しい空襲の中、夜から朝にかけて爆音に脅かされながら命からがら逃げ延びたこと、社宅が破壊されたために知人の家に避難したり、臨時の疎開小屋で電気も水もない中で苦しい生活を送ったことなどを、あたかも先日起きたことの様に鮮明な記憶を基にお話ししてくれました。未だに、大きな音を聞くと爆音と重なり辛くなると、空襲がもたらしたトラウマも語ってくれました。 佐々木良三さんは、由利郷開拓団の一員として満州国で暮らしている時、10才で終戦を迎えました。追われるように居留地を捨て400km余りを開拓団と共に長春(当時の新京)を目指し、裸足で山道をソ連兵や匪賊に見つからないように逃避行を続けました。大きな湖を船で渡るとき、乗せられなかった飼い犬が泳いで追ってきたものの行方が分からなかくなってしまったこと、累々と裸の死体が並び耐えられない悪臭に満ちた道路を歩いたこと、匪賊に襲われ激しい銃撃の中をひたすら匍匐前進で生きながらえたこと、父が死に炭鉱で手作業での石炭堀りでかろうじて食料を得たこと、逃避行ではほとんどなくなる人はいなかったが長春での収容所で寒さ、食料不足、そして何よりも発疹チフスで大勢の方が命を落としたことなど、ここには書ききれない苦難を越えて生き延びました。笑顔を交えてお話しされた姿が印象的でした。 戦争で命を失い、くらしと希望を奪われ苦しむのは、一般市民です。戦争を始めては絶対いけないのです。そのことを改めて強く心に刻んだ集いとなりました。市民会議はこれからも、平和のためになにができるのか共に考える機会を作っていきます。
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