『戦争を語る、知る、伝える、つなぐ』~土崎空襲、戦後80年シンポジウム

 去る6月22日(日)、土崎みなと歴史伝承館で「アジア太平洋戦争・土崎空襲80年シンポジウム」を開催し、約60人の市民が参加しました。

 4人のシンポジストがそれぞれの立場から「いかに戦争の事実や体験を深く知り、伝え、とりわけ若い世代にどうつなぐか」というテーマに迫りました。

 シンポジストとして登壇したのは、発言の順に、秋田ケーブルテレビ記者の西村修氏(コーディネーターを兼任)、秋田魁新報社記者の三浦正基氏、秋田大学名誉教授の佐々木良三氏、そして聖霊短期大学講師の菅野薫氏。

 西村氏は、ドキュメンタリー「アップルは届かず」の制作にあたって、『8月14日午後には日本政府のポツダム宣言受諾の意思が米国で報道されていたにもかかわらず、その深夜に土崎空襲が実行されたのはなぜか?」との疑問に迫った取材過程や、秋田の川反芸者が中国戦線の兵士たちの慰問のために動員された事実と、日本の戦争を銃後で支えた「恤兵」(じゅっぺい)というキーワードなどについても紹介しました。映像の持つ力を今後も活かしながら問題提起を続けていきたい、と述べました。

    三浦記者は、土崎空襲を始め空襲などによる戦争中の民間人の被害者の記録は行政により正確に調査・記録されていないのが現状であること、土崎空襲でも犠牲者は250名以上とされているが、その根拠が実は曖昧であること、戦争体験者が減少する中で犠牲者一人一人の存在を示す「名前」を残すことは戦争の事実を「事実」として確かに継承する手だてになり得ること、現在土崎空襲の死没者名簿の再調査に市民会議と協力して取り組んでいることなどを話しました。また、特に若者が戦争を知る機会を拡大していくうえで、紙面だけでなくネットやSNSなどを活用していく大切さについても触れました。

 佐々木氏は、10歳の頃、終戦を満州の東京城で由利開拓団の一員として終戦を迎えた後、翌年の7月に故郷に戻るまでの避難行について語りました。新京(現在の長春)までの410km以上を徒歩で41日間をかけて移動したこと、匪賊による襲撃やソ連兵の横暴、校長先生や父との死別、疫病の流行、食料の欠乏で乞食まで経験しながら故郷にたどり着いたが、350名いた開拓団は235名になっていたという過酷な体験を話してくれました。その背景には、食料増産、五族協和などの大義名分のもとに、勝手に満州国を建国して、中国人の土地、食料を激しく収奪した日本の侵略行為があったことも強調しました。

 英語教育を専門とする菅野氏は、「言語こそが平和を築く最大のツール」「コミュニケーションを通じた相互理解こそ、平和を作り出す」との理念を踏まえ、学生たちの戦争や平和の問題への意識のあり方を対話を通して探りながら、朗読や演劇などを通して学生とともに空襲・戦争体験の伝承に取り組んでいる現在の活動について説明しました。なお、8月30日には同校演劇部による、『証言 土崎空襲』をベースとした自作シナリオによる朗読劇「永遠(とわ)に紡ぐ」の上演が予定されています。

 4人の発言の後には、土崎空襲と戦争の体験者が自身の体験とともに「戦争は衣食住のすべてを奪う」「学生たちには絶対に戦争をしないということを教えてもらいたい」との発言や、また戦争遺跡の保存の重要性や今後の方向性などについての意見交換もなされました。

 2時間半に及ぶ長いシンポになりましたが、約60人の参加者は最後まで各氏の発言に熱心に耳を傾けていました。事後のアンケートにはこれまでにない長文の記述が多く、現在の日本の「新しい戦前」とも疑われるような危険な状況に憂慮しながら、自分にできることを考えたい、このような学びの場をもっとたくさん作るべき、などの思いが寄せられてました。


 以下、感想文のいくつかを掲載します。

  『戦争について学ぶことに改めて意義を感じました。戦後80年が経った今でも、世界では戦争や紛争、内戦がおこっていると考えると、「新しい戦前」というワードに納得してしまった。しかし納得してしまう時点で、現代社会の不安感や治安の不安定感を感じた。日本で戦争が起こっていない期間はたったの80年だということも考えさせられた。だからこそ、戦争に向き合い、自分事として考える意義を一人一人が見出していく必要があるのだということを改めて感じた。』(20歳)

 『戦争の悲惨さ、どうやって継承していくのか、と最終目的が似ていても、シンポジストの4人の活動や考え方が各々違ってどの方のお話も納得のいくものでした。

今回初めて自分の意思で空襲関連のシンポジウムに参加しました。「戦争はいけないこと」の先を考える事ができた時間になりました。』(20歳)

 『祖父が昭和20年3月20日、フィリピン マニラ東方20kmの高地付近という極めてあいまいな場所で戦死、いまだ遺骨は還らず八峰町に空っぽの墓があるのみ。
遺族にとって戦後はまだ始まってもおりません。
戦時中の歴史を知り、学び続ける大切さを改めてかみしめる時間となりました。シンポジストの皆様はじめ、この貴重な機会を作ってくださり本日はありがとうございました。』(47歳)

 『空襲で亡くなった方の名簿を改めて作っていくことは、一人一人の死と生きた証をとり戻し「名前」として残す、大切なことだと思う。「名もなき人々」にしてはいけない。他の自治体の取り組み例も活かしながら、今魁さんのHPや新聞で取り組んでいるようだがぜひ実現してほしい。またできることがあればお手伝いしたい。
今日図らずもアメリカのイランでの攻撃ニュースがあったが、声の大きい人物、権力のある人の言動がそのまま通る怖さがあるので、本日のような取り組み、機会がますます大切になると思う。8月のCATVも楽しみです。
シンポジストの先生方のお話しも興味深く聞かせていただきました。「情報」「考える」ことの大切さを改めて感じました。』(60歳)

 『過去の歴史(何故戦争になったのか?)を正しく学び伝えることが大事だと思っている。私自身、土崎空襲の話を聞き、自分の生まれた土地の戦争のことを何も知らず育ってきたことを知った。私の家は焼夷弾で焼けていたそうだ。私は熊本県の生まれ、小学生のころ、長崎の原爆の時の話を母から聞いたことは覚えているが、その他は何も分からない。母たちは平和になったので、語る必要がなかったのだろうか。
しかし今、とても不安定になっている。私たちの世代で再び戦争になってはいけないと感じている。孫とも今のいろいろな出来事を話すように心がけている。国政についてもおかしいことはおかしいと意思表示していくことが大事だと思っています。』(69歳)

 『戦後6年後に生まれた自分ですが、戦後を全く感じないで生活してきました。今日、戦後80年ということで、戦争に関する記事が連載され、またロシア・ウクライナ戦争、イラン・イスラエルが現在進行中の中で、改めて戦争はなぜ起きたのか、なぜ止められないか、戦争中みんなはどう思って暮らしていたのか、知りたいと思い、今回参加させてもらいました。新しい戦前にならないように、このような機会を続けて行ってほしいと思いました。』(73歳)

 『本日のゲストの皆様それぞれの職域を通した中で、戦争への思いが強く感じられ、戦後80年を振り返る中で貴重な一日になりました。
しかし、一歩外に目を向ければ、ウクライナ、侵略者が殺人を犯しているのに、何の手立てもできない、或いはイラン・イスラエル。戦火が絶えない現実に無力を感じている。私は終戦後生まれで戦争を知らない世代、しかし20代、30代の頃は、ベトナム戦争、安保、沖縄問題などで一人一人が行動を起こしていたのを記憶している。ただ手をこまねいているだけで平和は守れないと感じている。』(77歳)

 『みな様のお話し、大変良かったと思います。
菅野先生の言語でコミュニケーションをとるということ、最強の平和を築く武器となるということ、なにより強く心に残りました。私は音楽も素晴らしいものと思います。
若い世代から若い世代へとつなげていこうとしていることに感銘を受けました。
佐々木先生の絵、アートも素敵です。マスコミさん、ガンバレ!』(83歳)

 『戦中戦後の時代に教育を受けた人間として、改めて次世代、若者に理解してもらう難しさを気づかせ考える機会に恵まれたこと!それでもその問題への提案は何一つ浮かんできません。
国民学校1年生と歌いながら、竹の棒をもって毎日毎日土手に伏せの練習を繰り返し、B29でおびえ、「唯、戦争は二度とあってはならないと思うこと!」だけは身に染みていることだけは「確かなこと」
戦後80年の重みは筆舌に尽くしがたいことを痛切に思う。』(88歳) 

 『戦争の結果を掘り起こしてその無謀さや悲惨さから、「戦争はダメ」ということを広めていくのも重要ですが、、、
国民がいかに戦争に巻き込まれていくのか、政府が嘘をついて国民をダマスというのが、古今東西どこでも変わらないと私は考えています。だから、いかに戦争を防ぐのか、そのための教育のあり方やマスメディアの役割、国民がどんな行動をとったらよいのか、などの学習会を望みます。』(92歳)

0コメント

  • 1000 / 1000