9月28日(土)、秋田市土崎港港湾公園に立つ「平和を祈る乙女の像」の前で、「土崎空襲犠牲者名簿奉納式」を行いました。式には来賓、関係者、市民など35名が参列しました。多くの報道機関が取材に駆け付けました。
日本最後の空襲の一つである土崎空襲では、標的となった旧日本石油秋田製油所の社員・家族を始め、一般市民、軍人・軍属など、約250人以上が犠牲となったと伝えてきました。この数字は、行政の調査によるものではなく、土崎港被爆市民会議の先輩たちが、土崎地内のお寺を訪ね歩いたり、遺族や体験者の座談会を開いたり、住民に調査票を配ったりなどして、積み上げた数字でした。現在に残るいくつかの書籍などによりある程度の犠牲者の氏名は判明していましたが、残念ながら市民会議のメンバーの世代交代などで犠牲者数の裏付けとなる資料が散逸するなどして、その根拠が明確ではありませんでした。
今年が戦後80年、加えて市民会議の創立50年という大きな節目であることから、個々の犠牲者の存在や尊厳、本来あったはずの喜怒哀楽の人生の証となるお名前を、一人でも多く記憶に刻み付けるべく、犠牲者名簿の再編纂に取り組みました。
今年4月、「平和を祈る乙女の像」の台座に収納されていた犠牲者名簿の原本を取り出し、そこに記されていた氏名を証言集や諸書籍資料、地区のお寺に遺されていた名簿などと精細に照合したり、空襲体験者などから情報を得るなどして、8月14日現在で125名の氏名を確定することができ、平和祈念式典の会場で公開しました。式典終了後、親族が空襲犠牲者かどうかわからないかと申し出た方がありました。神戸空襲の犠牲者が戸籍簿で判明した事例の資料を渡したところ、その方が市役所で取得した戸籍簿により、新たに2名の氏名が判明し、併せて127名の犠牲者名を掲載した名簿に更新することができました。
ただ、秋田製油所の警備などのために全国各地から配備されていた軍人や、軍属などの氏名は一部しか分かっていません。証言などでは多数の兵士が犠牲になったといわれていますが多くの氏名は不明のままです。調査を進めるためには兵籍簿や火葬・埋葬許可書などの公文書に頼らざるを得ないもののプライバシーの壁が立ちはだかり、一市民団体の力では到底及ばない部分があり、市や国、都道府県などの行政機関の協力が無ければ、先に進まないというのも現実としてあります。今後は、名簿調査への協力を表明している秋田市への要請などを進めていきます。
奉納式の冒頭には、小学6年生の旭悠斗さんが鳴らす平和の鐘の音とともに、一同が空襲犠牲者のご冥福を祈り黙とうを捧げました。
市民会議の伊藤紀久夫会長はあいさつの中で「日本最後の空襲により非業の死を遂げた人々のことを決して忘れてはならない。今日の日を新たな一歩として、今後もより正確な名簿の編纂作業を、行政のご協力を得てできうる限り進めていく。戦争は絶対ダメ、平和であってほしい、との犠牲者の願いを胸に、土崎の地から平和への声を発信し続けていく」と決意を述べました。
続いて、北部市民サービスセンター所長畠山健氏が沼谷純秋田市長のメッセージを代読し、北部地域住民自治会協議会の会長の善導寺住職の渡邊清明氏が来賓を代表して挨拶をされました。渡邊氏は市民会議創立当初から戦後50年まで土崎仏教会が婦人会などとも協力して携わった灯篭流しの歴史に触れながら、「土崎空襲の犠牲者のことを忘れないことが供養になる、子や孫たちとともにこの平和の像を訪れ、戦争のことを伝えて、悲劇を二度と繰り返さないとの思いを、100年、200年とわたって受け継いでもらいたい」と訴えました。
次に、9月28日現在で確定できた犠牲者一人一人のお名前を読み上げた後、乙女の像の台座に、土崎や飯島地区の小学生が作成した折り鶴とともに、犠牲者名簿を収納し、最後に参列者全員で献花を行い奉納式を閉じました
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